子供の頃の奇妙な遊びの話

こんにちは、あのねえ、ちょっと聞いてよ。

 

ツイッターのフォロワーさんが「ブログのテーマを募集しま~す♪^^」などと言っていたからさ、同じくブログが趣味である俺としてはこんな題材どうよっていろいろアドバイスしたいところだよな。

 

で、そのとき俺は「子どもの頃の奇妙な性癖について書いてください」などと気の利いた提案をしたところ、「うんわかったー♪^^;」などと言いつつ実際にはそれと似ても似つかない「恋愛」に関するテーマでブログを書いておられるようなので(なぜだ??)、仕方ないから今回は俺自身の奇妙な行動について書こうと思う。ここまでどうでもいい前置き。

 

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子供の頃、俺がどこかで遊ぶとしたら基本一人だった。理由は友達がいないからだ。

そしてまた、そうした遊びをするときは基本道具も何も使わなかった。理由はお金が無いからだ。

これらの要件をまとめると、俺が子供のころにしていたのは一人でできる道具の必要ない遊びで、具体的には変わった形の木の枝を振り回したり、ただ意味もなく近所の公園の四隅に向かって猛然と走るとかそんな感じだ。

 

これだけでも相当面白い遊びなんだが、これをさらに味付けするべく、俺は毎回違った妄想をすることで、同じ公園の四隅に向かって走るのでもその都度スリリングな状況を作り出していた。

 

例えば、今は野球の試合中で、9回裏2アウト、ヒットを打った自分がランナー1塁だとする。俺はサヨナラのチャンスを作り出すべく、一世一代の盗塁を試みる(つもりで公園の隅に向かってダッシュ!)! すごく面白い。

で、この妄想で何度か走り回って飽きてくると、じゃあ次は5回裏ノーアウトの状況でやってみよう。7回裏ワンアウトではどんな気持ちになるだろうなどと妄想しては、公園の四隅に向かってダッシュ

しまいにはそうした状況を妄想する時間に30分、実際にダッシュするのに10秒という、公園という土地を利用するにはあまりに非効率な遊びになっていった(あの子は公園の隅でずっとブツブツ言ってたと思ったら突然走り出して病院にいかなくていいのか?)

基本的には自分が死ぬまであと10億年はあるだろうと思っているヤツがする時間の使い方だ。

 

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自分ひとりだったら靴の裏がすり減るまで好きに走り回ればよいが、俺だってごく稀に、友達と遊ぶことがあったんだ。

 

そこでも公園を走り回るわけにはいかないから(こうした楽しい遊びは教えたくない)、代わりによくやったのは、みんなでおもちゃの剣を持ちつつ、家の周囲を覆うブロック塀を歩いて回り切るという冒険ごっこだった。今思い出しても懐かしい。男の子はこうした遊びをひたすら出来るものだ(とはいえさすがに20代前半の頃には段々とする機会が減っていったが)。

  

俺と友達たちが、細い足場の上を歩いていく。

で、ただ歩くのではつまらないから、「ここの下には10,000度の溶岩が流れている。落ちたらすげえ熱いぞ!」などと妄想の設定をしつつ、みんなでソロソロと用心深く歩いていたのだ。

 

 そして、魔物を倒しつつ(実際には野良ネコなどだが)、無事にブロック塀を周りきった勇者たち。

冒険をやりとげ、「次どんな遊びする?」と言う仲間を前に、俺は「次は溶岩の温度が15,000度だとしてもう一回やろうぜ!」だからな。

 

かくして、先程と外見的には完全に同じ遊びをしていると思われる子どもたちがブロック塀をぐるぐる歩いていくのだった。温度の刻み方で無限に楽しめる。

 

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この遊びから示唆されることは何があるだろう。何もなさそうだ。

強いて言えば、心の持ちようで普段の景色も変わってくるぞということだ。これは今ひねり出した。

 

ところで、これと似たような遊びをしている声優を知っている。

俺が昔よくラジオを聞いていた井上喜久子さんという人なんだが、彼女は「電車のつり革が全部ドーナツだったらどうだろう」などと妄想しながら電車に乗っていたそうだ。すごく美味しそう。ただ電車が急停止した際に哀れなほど無力だ。

 

一見すると同じことの繰り返しのように見えるこの人生も、頭の中の想定ひとつで違う景色になる。同じように見ているのは自分なのだ!

 さあ外に出て、この世界を新しい角度で見てみよう! なんていう2,000円で参加できそうな自己啓発セミナーみたいな終わり方にしてみました。またね~。

 

 

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