正義の費用対効果

電車で喫煙しているゴミを注意した高校生が逆に暴行を受けた事件に関して、ネットの意見では「高校生を称賛する」「周りにいて見ていただけの連中はクソ」とうのが主流のようだ。

 

誰もが非常識・違法な行為に対して注意をして、相手がそれを聞き言れて改める世の中があれば、どんなに理想的だろうと思うし、そうした世界を追い求める姿勢自体は結構だと思う。

 

でも、皆さんご存知のとおり、そして自分自身もそうであるように、言われて素直に従うのは、実際にはそれがダメだって知らなかった人くらいなもんだ。

たいていの人は、誰かから注意されたって改めないし、逆上して掴みかかってくるほうが多いだろう。

そういう連中に個人が戦いを挑むこと、その正義感はいいだろうが、正義の見返りがどれくらいあるだろうかってことを考えることも必要なんじゃないだろうか?

という大変情けないテーマが本日の日記。

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今回の事件で容疑者となった「電車の優先席に寝っ転がってタバコを吸っている男」という、100人に聞けば100人ともが[ヤバい異常者]だと答える危険人物に向かって何か注意しようって考えた時、頭の中ではどんな未来が想定できただろう?

どうしても長時間の禁煙に絶えられず、申し訳なさそうに連結部とかでかこそこそ吸ってるヤツじゃないぞ。座席に寝っ転がって吸ってんだぞ。

そんなモンスターみたいなヤツが「あ、ごめんなさい・・・ここでタバコ吸っちゃいけないって知らなかったんで・・・」なんて言って、懐から出したシガレットケースにタバコをしまうだろうか?


おそらく、実際に懐から出てくるのはもっと鋭利なものだろう。

 

確実に相手は従わない。高い確率で自分は刺される。

その時、その正義の費用対効果はどうなるだろう?

 

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さて、こんなことを言う非常識でモラルのない、クソの同類のような俺にだって、他人の非常識に対して何かを言ってやりたい気持ちになることは多くある。


でも、いったん立ち止まって考えるのは、そう言われた相手が素直に従う確率がどれくらいあるだろうか? ということ。


「相手が、何の関係もない俺に注意されて従うメリットは? 警察ならわかるが(それでも渋々でしょうが)、俺に言われてだよ?」


その確率計算上で分が悪い時、俺は堂々と見て見ぬ振りをする。

自分の身と心を守るため、戦略的に無視をする。

そんな事をすれば、良心と矜持が傷つき、情けない自分に嫌悪感を抱くだろう。

そんな時は「こんな奴が日本に何万人いるんだろう?」と思うと心が静まる。
目の前の奴が許せなくて注意をするならば、論理的には、日本で同じ行為をしている輩全員に注意して回らないといけないだろう。
が、俺はそんなことはしようとも思わない。

なぜか? 
注意するのは、たまたま自分の目についたからだ。
ならば目につかなかったら注意しないんだよね?

はい、無駄なエネルギーを使わないように目をそむけよう。

 

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これを読んで、こんな情けない大人が日本にいるものだと思うだろう。

でも、冒頭で紹介した高校生が「勇気のある立派な人」として讃えられているのは、殺されなかったからだとも思うんだよね。
仮に一発ナイフでグサっとされていれば「なんて危険なことを」って論調になっていたんじゃないかなと思う。
そして、その可能性は十分にあった。


正直、暴力団事務所にあえて乗り込んで「暴力をやめましょう!」と訴えるのに等しい行為だと思う。

それは勇気ではなく、蛮勇っていう言葉に変わる可能性があるんじゃないだろうか?


彼の言っていること、やっていること、全てが適法であって、少しも責められる部分はないように思える。
また、それをしたら一体どういう結末になるか、つまり自分の命が危険にさらされるということは、もしかしたら高校生には分からなかったかもしれない。

理想を求め、正しさを説けば、それに頷かない人なんかいない。思春期頃までは俺もそう思っていたかもしれないし、大人になるにつれて薄れていった大切な感覚かもしれない。

でも、その行為の実行を称賛するってことは、「その高校生は、同じ状況に出くわしたらまた同じようにせよ」って言うことだけど、本当にそうだろうか?

例えば羽鳥アナウンサーの言うように、命を大事にしながらできる別のことがあったんじゃないかなと思う。
でも、その意見は世間的には批判されているようだ。

 

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Yahoo掲示板に匿名で書き込んでいる限り安全だから、割となんとでも言える。

が、自分の身に置き換えて考えたら、また意見も変わってくるんじゃないかなと思う。

 

例えば、自分や、自分の家族がそういう場に居合わせたらどうだろうか。

自分の子供、兄弟、姉妹だっていいけれど、この高校生と同じ状況で、この高校生と同じ行動をすることを、心から誇らしいと思うだろうか?

 

というか、世間一般の人は、このニュースを見て、自分の子供に何て言って聞かせているんだろう? すごく興味がある。

「お前もこういうヤツを見かけたら、素手で向かって行って注意しろ。仮に逆上した相手から殺されても、お前は誇らしい」って言うかねえ?

真剣にそう言う人物だけがネットの掲示板で高校生を称賛すれば良いと思う。

 

他方で、俺が親だったら、電車の優先席に寝っ転がってタバコを吸っているやつが同じ車両にいた場合、キャプテン・アメリカのような勇者の行為ではなく、次のような行動を子どもに推奨するだろう。「逃げろ、息の続く限り」

次の駅につくまでにガソリンが巻かれて、車両が火に包まれたとしても全く不思議はないし、むしろそういう危険を想定できていないことを嘆くだろう。
Youtubeばかりで最近のニュース見とらんのか??」

 

そして十分に安全な距離まで逃げたところで鉄道会社に連絡させる。それがせいぜいだろう。
今回特に避難されている「周囲で見ていた人」という立場になったとしてもそうだ。


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ご存知のとおり、世間には、何を言っても従わない、むしろ他人に迷惑をかけるのが自分の喜びに感じている連中がいる。

それも、かなりいる。

 

彼ら原始的な動物のような連中と違って、倫理と常識をもった僕らは、危険を犯してでもそうした連中に注意することを抑えられないときもあるだろう。
「正義感」という、昔から良いこととして教えられてきた概念がそれを後押しする。

 

でも、それを実行するかどうか、注意する見返り、つまり、正義の費用対効果が「正」の数値であるかどうかは、よく考えないといけないと思う。
俺は経済学*1が好きなろくでもない人物だから、だいたい何でも費用対効果で考えてしまうのだが、世間的には「正義」について「費用」を考えない傾向にあるけれど、自分が死ぬかもしれないという費用は、目の前のクズひとり黙らせることに対してはあまりにも重たすぎると思わないだろうか。


でもこれは、裏を返せば、戦う相手にもよる。
おっさんから痴漢を受けている女性を見かけたら?
即座におっさんの腕を掴んで、電車から引きずりおろしても構わないだろう。

現に俺はそういう場面に出くわしたらいつでも捕まえてやろうと待ち構えている。

 

優先席に寝っ転がってタバコを吸っている、身体中入れ墨だらけの男がいたらどうだろう?
冒頭の高校生は勇敢な行動を選択した。結果的にはタバコ男は逮捕されたものの、高校生は命を危険に晒したし、とんでもない恐怖を体験した。


「言っても従わない、他人に迷惑をかけるのが自分の喜びに感じている連中」に注意して、それが素直に聞き入れられる可能性は間違いなくゼロだ。
注意したところ、案の定、逆上されて殴られました。

この時、注意した意味はあるかないか? 
問い方を変えると、聞き入れられる可能性がゼロならば注意しなくていいのか?
これは難しい問題だと思うけど、少なくとも「自分が死ぬ危険」がある時は、慎重にならないといけないと思う。
(「古き良き日本では、きちんと注意する大人がたくさんいた」って本当かなあ?)


「言っても無駄だから放っておこう」は、臆病で情けないかもしれないけれど、長生きはできるし、嫌な思いをすることも減るだろう。


自分が見かけたからにはどうしても注意してやりたい、そして、日本にいる同様のゴミどもは全員許せない。
そういう真に勇敢な人物には、日本国から、警棒・手錠・拳銃のセットとともに、その武力の行使の正当性を証明する警察手帳が与えられる。
戦いはできるだけ彼らに任せよう。
俺が親ならばそう子供に伝える。

他方で、冒頭の高校生のような正義感と真の勇敢さを備えた人物がそのまままっすぐに将来を歩むからこそ、日本には、健全で頼りになる、公正な警察官がたくさんいるのだろうと思う。
その意味では、高校生のことを讃えたい。無事を祈る。

*1:「道徳」の対極にある科目が「経済学」だ