「シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 」見たよ。その感想。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」見てきたので、今日はその感想を書く。

 

  

□感想

 

以下、ネタバレ含みます。

 

文句なく、今までのエヴァ・シリーズ」作品の中で最高傑作。

 

個人的に「名作」だと思うものって、「悲劇」とか「喜劇」とか一色に染まっていないで、シリアスな中にポツポツと笑える箇所があったり、喜ばしい場面の中でちょっとした不安が織り込まれていたりするものなんだけれど、このエヴァは本当にそんな感じで、「よくできた」作品だと思う(「Q」は悲劇一辺倒だったんだけど・・・。)。

最初から最後まで全部のシーンに喜怒哀楽が織り混ざっていて面白く、バトルシーンも(もちろん)凄いというか「よくコレ作ったな~」と感心してしまう出来栄え。*1

特に、冒頭のパリでのバトルシーンだけでも、もう一度映画館に見に行く価値がある。

 

ストーリー的にも、全日本人を「???」の闇に突き落とした「Q」の反省からか、割と登場人物がセリフで説明してくれる親切設計。庵野監督のサービス精神が色々なところで見られるのでご安心を。

 

20年以上前からのエヴァ世代も、新劇場版から見始めた若者たちもみんなが満足できる最高品質の作品であり、なるべく大きなスクリーンでやっているうちに見に行ってください。

 

 □特に気になったところ(完全ネタバレ)

 

とくに印象に残った箇所、モヤモヤした箇所など、自分なりの考察を交えて書きます。

 

 

 

・無かったことにしていなかった。

この「:||」の感想を一言で表そうとすれば、「無かったことにしていなかった」になる。

 

もっとも、この感想はもともとツイッターのフォロワーの言っていたものなのだが、この作品を見るまで俺はそれを(割と悪評が目立った)「Q」のことだと思っていたのね。

「Q」を黒歴史にはしていませんよという意味。

 

ところが、「:||」を見て感じたのは、「Q」だけではない、1997年に公開された旧劇場版、その前のテレビシリーズから全部まとめて「無かったことにしていなかった」というもの。

 

当時、「Q」も「旧劇場版」も、庵野監督が「若干やりすぎた」おかげで、「エヴァってなんかよくわからん」という感想を世界中に撒いたまま、完結したのかしてないのか分からないまま、宙ぶらりんになっていた(少なくとも俺の中では)。

それを無かったことにせず、【その続きとして】旧劇場版を含めて、新劇場版できちんと終わらせにきたんだな、ということが良くわかったし、俺としてはそれが嬉しかった。

まるで、膝を抱えて蹲っているシンジ(旧劇場版)を迎えに来たアスカ(「:||」)のようだ。

 

これに関しては、「:||」の作中でも、トウジが「自分がやったことは、自分でケジメをつけなあかんのや」的なことを言っていたが、これは庵野監督からの、庵野監督自身についてのメッセージそのものに思えたんだよね。

「旧劇場版」などでぶちまけたままになっていたおもちゃを、きちんと箱の中に戻して「きれいな作品」として収めてケジメをつけました。

まるで「補完計画」のように、どんどんと1つの完璧な存在に収束していくエヴァンゲリオンの世界を見ながら、みんなそんな印象を受けたんじゃないかな。

 

ただし、この点、「旧劇場版」を完全にクローズしたひとつの作品として捉えていた人には、「今からちゃぶ台返ししないでくれ」と感じられたかもしれない。寝た子を起こすようにも感じた人もいたかもしれない。

でも俺としては、過去から続くシリーズに「納得感」を与えてくれた良いシナリオだと思う。

 

というわけで、新劇場版シリーズは全く新しいものを作ったのではなくて、過去からの全てのエヴァンゲリオンの世界をまとめて、昇華する、そんな位置づけの作品だったのだ。

キャッチコピーの「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というのはまさにその意味なんだ。

 

 

・「Beautiful World」の歌詞の意味

 

新劇場版のテーマソング的な位置づけとなっている、宇多田ヒカルの「Beautiful World」について、今まで、シンジくんの内面を表した歌だと思っていたのね。

シンジの、綾波か、あるいはアスカなどに対する、弱くて寂しい歌だと思っていた。

 

でも、「:||」を見た後、スタッフロールで流れるコレを聞きながらハッと気がついた。

これって、ゲンドウの、ユイに対する気持ちを歌っているんだ。

ユイを失った後のゲンドウの気持ちでこの歌詞を読むと、本当に全てが腑に落ちるんだよね。

 

【もしも願い一つだけ叶うなら 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ】

【言いたいことなんか無い。ただもう一度会いたい。 言いたいこと言えない。根性なしかもしれない。それでいいけど】

 

こうした「Beautiful World」の詞は、「プロジェクト・エヴァンゲリオン」という、ゲンドウによる、「死んだユイに会う」というたったひとつの、しかし気が遠くなるような途方も無い計画を進めている時の気持ちなんだなあと、今更ながら思う。

 

もっとも、このことは「旧劇場版」を見ても何となく分かりそうなもんだけど、「:||」では重要な点として、「旧劇場版」ではそれほど描かれなかったゲンドウの心の弱さ、執着、ユイへの想いが丁寧に書かれていて、そのことがしっかり分かるようになっている。

「:||」はそういう意味で「親切な」映画だったように感じる。

 

 

・カヲルの正体

 

これまでカヲルについては「なんかよく分からんけど、一人だけ世界の全てを知っている使徒」「石田彰」「なんでこいつだけメタな発言するの?」「石田彰」って感じで、「Q」でも良く分からなかったのが、今作では、これもゲンドウの自分語りやラストシーン、あるいは配布された小冊子などで、何となく存在がわかるようになっていた。

 

その存在こそ、ゲンドウに残された、シンジに対してこういう父親でありたかったという気持ちが使徒となったものだと思う魔人ブウでいう「太った方」みたいな存在だな。

 

「Q」におけるカヲルは、シンジに対して、恋人以上かってくらい面倒見がよくて、どこまでも甘くて、一緒に好きなピアノを引き、困難に付き添い、責任を引き受け、そして先に死ぬ。

ゲンドウの中に、「父として、こうありたかった」という気持ちが僅かに、でも力強く残っていたからこそ、カヲルだけは何度でも新たに生まれ直し、シンジをエヴァのいらない新世紀に導く役目を与えられていたんじゃないか。

 

そして、役目を終えたカヲル(=ゲンドウ)は、平和な世界で、ずっと会いたかったレイ(=ユイ)と一緒に過ごす・・・ゲンドウの「本当の望み」がこれだ。

いろいろ物議を醸したこの映画のラストシーンは、その意味でゲンドウにとってもハッピーエンドだった。俺はそのように解釈した。

 

 

・アスカかわいそう。

 

上記の通り、「:||」で綺麗にまとまったエヴァンゲリオンだけど、アスカだけは、この映画を通じても割と可哀想な扱いで、アスカ推しの俺としては、ラストシーンでの扱い(というか「不扱い?」も含め、結構モヤモヤした。

 

文句なしの天才である庵野監督とは違う、俺のような凡人がこの映画のラストシーンに意見を挟むとするならば、最後、駅のホームに迎えに来るのは大人になったアスカだよな~~~~。

 

そもそも、アスカはエヴァ登場人物の中でも最もシンジのことを理解して、心配して、そして愛していた人だと思う。

「Q」では、みんなから無視され、悪魔のような扱いをされているシンジを、一発ぶん殴る(ガラス越しに)だけで「スッキリした!」と言い、あとは(たとえ表面上敵対していても)ずっとシンジを気遣っている、最高の理解者。

冷たく突き放しているようで、誰よりも心配して、絶対に見放さないんだよな。

 

だから彼女は、自分の好みでなければいつでも去ってしまう「恋人」というより、永遠の愛を象徴する「母」みたいな存在に近い。もともと、「母」という役割は「ミサト」に与えられていると思っていたけど、「Q」での態度はあまりに冷たすぎたし、やっぱり母はアスカなんだと「:||」でも再認識。

 

ここまで書いて、うーん、そうか、アスカは「母」だから、エヴァから離れ、大人になったシンジくんから「子離れ」したということで、ラストにはいなかったんだろうか?

そういう解釈もあるか・・・。

 

でも何で、あそこでマリなの? 呪いが解け、これからを生きていく人の前に現れたのがゲンドウとかユイとかと同じ「昔の人」じゃん! この辺りの解釈を教えて下さい。*2

 

せめて、最後に迎えに来なくてもいいから、少なくとも、アスカがその後どなったのかってのは明示的に表して、俺たちを安心させてほしかった。*3

アスカはずっとずっと不遇で、「:||」でも一人で頑張る可哀想な子なんだよな。

あと、やたら下着姿や裸のシーン多かったけど、あれ要ります? ケンケンの前ではちゃんと服を着ていてほしかった。 

 

・「新世紀」で、トウジとか委員長ってどうなったの??

 

「:||」では、ニア・サードインパクト後も懸命に生き抜くトウジや委員長、ケンスケたちの姿が描かれている。暖かく前向きな彼らの存在が、レイに人格を与え、そのことがシンジを勇気づける役割を果たしている。

 

で、物語の最後で、シンジはエヴァのいない「新世紀」を作るんだけれども、もともとエヴァのいた世界のトウジとか委員長ってどうなったの?

 

シンジとかマリとかは、エヴァに乗ってどこへでも行けるからいいんだろうけれど、あの人たちは、いったん補完され、神・シンジの手によりそれが中止され、引き続き「あの世界」で生きているんだろうか。

 

または、神・シンジにより創造された、エヴァのいない新世紀に生まれ変わったのだろうか。だとしたら、やっぱトウジと委員長(あとスズメ)がいた世界って無くなっちゃったってことだよなあ。それはそれで可哀想。彼らはあんな世界でも前向きに生きていたのに。

 

パラレルワールドの作品ってこういうところが良く分からんよなあ。

 

ちなみに、6月12日に公開された「:|| +1.01」で、先着100万名限定で配布された冊子には、3歳になった娘のスズメ*4のイラストがある。とりあえず、どこかの宇宙で生きてるのかな・・・。

 

・親子がきちんと向き合ってスカっとした。

 

エヴァは要するに「親子の物語」である。

親子の物語なんだけれど、これまでの作品では(テレビシリーズも旧劇場版も)、その親子の絡みや、ぶつかり合いはほとんど無かったんだよね。

そのことが、ゲンドウの意図(自分独自の補完計画)を視聴者にわかりづらくさせていたんだと思う。旧劇場版は、ゲンドウにとってのシンジの存在、つまり、「子離れができない自分の弱さ」をあまり見せなかったから、彼のやりたかった事そのものが不透明に感じられた。

 

それが「:||」では、本当にこれ以上ないってくらい、あの親子が外面・内面ともにぶつかりあって、大激突する!

これまで積もりに積もったモヤモヤを一気に、十分に晴らしてくれるんだな。

 

そして、この親子を最終的に「補完」するのは、親子間の暴力でなく、内面をさらけ出した上での話し合いだった。「俺はこう思っていたんだよお!!」 と。

そうして曝け出されたゲンドウの弱さや、息子への想い。

それをゲンドウ自身が理解することで、ゲンドウは、わざわざ補完計画をせずとも、目の前の息子の中にユイがいるのだと気がつく。

「そこにいたのか、ユイ」というのはそのこと。そうして親を受け継ぐのが「子」というものだもの。

 

そしてもちろん、こういう展開に持ち込むためには、シンジ自体の成長も必要なのだ。自立し、親を受け入れ、それを乗り越えていく。

その精神成長の過程は、155分間をもってしてもなお短く感じられたけれど(レイの成長と消滅を目の当たりにすることで、急激に悟りを開いたのだろう)、物語中盤からのシンジのたくましい姿があったこそ、ゲンドウと互角に戦い、最終的に彼を解放できたのだ。

アスカの「なんで私が殴ったかわかる?」という質問にきちんと答えるシンジの姿なんて、これまでの彼からは考えられないくらいきちっとしていて、本当にかっこよかった。

「なんで私が怒ってるかわかる?」的な質問に、ピッタリ満足いく答えを言える(言おうとする)人少ないでしょ!?

 

こうして、ゲンドウはシンジによってきちんと補完され、子離れし、綺麗に旅立っていった。「カヲル」の項でも言ったけれど、ラストシーンは、そうしてきちんと子離れした親同士(カヲル・レイ)が、二人だけで悠々自適の「老後」を楽しんでいるように見える。

 

この親子の、遅々として進まない関係を、派手なぶん殴りあいから、内面の吐露まで、「:||」ではよくぞここまで向き合わせてくれたと思う! この作品で最もスカっとしたポイントもこれ。

 

というかこれ、「範馬刃牙」のラスト、「エア夜食」だよね!?*5

 

 

○まとめ

 

最初にも言ったけど、エヴァの中では最高傑作であるのは間違いない。

 

ただし、この感想のほとんどが「旧劇場版ではこうだったけど、新劇場版ではその謎がとけた! 感動した!」という趣旨のものであるとおり、ある程度予習が必要だと思う。

もっとも、テレビシリーズや旧劇場版から予習するというのは大変だから(Netflixなら全部あるよ!)、新劇場版から見直せば良い。

 

これだけ日本のアニメ歴史の革命として名を残した作品の最後であり、そこまでやる価値はあると思う。

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*1:とはいえ、ミサトの家とか、舞台セットで戦っていたのは「やりすぎ」だと感じて少し白けたど・・・。あそこは正攻法の取っ組み合いで良かった。

*2:もっとも、真の「母親」役は「マリ」であり、ラストシーンも別に恋愛関係ではない、という解釈もあるようだ。俺も初見ではあの二人は「恋愛」ではないと思ったんだよね。過去にアスカが「ガキシンジには恋人なんかより必要なのは母親ね」と言っていたのとも整合的。でも、そういう「寂しく、頼りなく、エヴァを必要とした世界」ではなくなった新世紀において、なお「母親」が必要だとは思えないんだよな。だから、やっぱり「恋人」が現れたのだと考えるのがしっくり来るのだけど、そこで来たのが「昔の人」だから、なんだかな~と思っている次第。あと、あの二人は山口県の駅から降りてどこに向かったんだ?? 庵野監督の実家か?

*3:ラストシーンの駅のホームにいるらしい。いた!?!?!?!?!??

*4:ツイッターのフォロワー情報によると、正しくは「ツバメだよ・・・」とのこと。同じ鳥類だからといって間違えた。俺がいかにいい加減に映画を見ているかわかるだろう。

*5:刃牙」という作品も、壮絶な親子喧嘩を描いているという点ではエヴァと似ている。

「地上最強の生物」である父親を倒すために子供が強くなっていくんだが、最後は、ぶん殴りあいで決着するのではなく、父が「父親らしく」ご飯を作ってみせたものを、子が「味噌汁がしょっぱい」といってちゃぶ台返し。このワガママをもって、父親は子供を認めたのであった。「お前が地上最強を名乗れ」と。うーん、なんだか自分で書いていてあんまり「:||」と似てない気もしてきたので注釈に追いやるが、この5~6行を無駄にしないためにも、エヴァ刃牙と同じく、親が子を真に理解し、その親を子が乗り越えていく物語なんだと言って、この項を無理やりまとめたい。