新海誠監督作品「天気の子」を3回ほど見たので、本日はその感想を書くであります!
ほぼ全編にわたってネタバレなので、まだ映画館で見てない人は、この先を読むなであります!
- 1.あらすじであります!
- 2.繰り返し見るべき映画であります!
- 3.ガキって基本、あんな感じであります!
- 4.「大人」と「子ども」の戦いであります!
- 5.子どものほうが羨ましいであります!
- 6.「君の名は」とは違うのであります!
- 7.「大丈夫」ではないであります!
- 番外編. あのブラは一体誰のもの? であります!
- まとめ. タンクトップと短パンで映画館に行くであります!
1.あらすじであります!
親子喧嘩が原因で、太平洋に浮かぶ小さな島から家出した主人公「帆高(ほだか)」は、東京で一人、孤独なホームレス生活を始めるであります。
が、程なくして、怪しげな雑誌編集者である「須賀」と、その姪である「夏美」、そして、精霊的な力により、小規模の範囲の空を必ず晴天にできる能力を持った「陽菜(ひな)」と出会うであります。
彼ら(彼女ら)と、脈絡がないけれど充実した東京での日々を送る帆高でありますが、ある日、天気を操作したことの代償として、帆高が密かに恋心を寄せていた陽菜が消えてしまうであります!(実際には天空の世界へ転移し、そこで天気の調整を司る「人柱」となるのであります)。
家出少年(かつ、拳銃所持)の帆高を逮捕しようとする警察などに抵抗しつつ、帆高は命がけで陽菜と再開し、天空の世界から救出するでありますが、その一方で、陽菜という「人柱」を失った東京は、その日以降、3年以上雨が降り続き、やがて静かに水没してしまうのであります。
高校を卒業し、都内の大学に進学することとなった帆高は再び須賀の元を尋ね、この異常気象の原因が自分たちにあるという罪悪感を吐露するのであります。
そしてまた、恐らく自分と同じような罪悪感を抱いているだろう陽菜を、どう励まそうか悩みながら、陽菜と歩いた思い出の坂道を行く途中で、天に向かって晴天を祈る、高校生となった陽菜を目撃するのであります。
その姿を見て帆高は、この世界こそがまさに自分たちの望んだものであって、陽菜と一緒ならば「大丈夫だ」と確信するのであります!
※本作はNHKの制作・著作品では無いのであります!
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2.繰り返し見るべき映画であります!
個人的に、「天気の子」は、同監督の前作「君の名は」と同じか、それ以上によくできた作品だと思ったであります!
また、それと同時に、東京が水没するという結末については、公開前に監督がインタビューで語っていたとおり「賛否両論ある」だろうなあと思ったであります。
「よくできた作品」なんて思った俺自身も、最初に見たときは東京が壊滅したことのショックが大きくて、素直に感動できていない部分もあったであります。でも、それは2回目、3回目と見るうちにガラっと変わって、むしろその部分こそが大きな感動へと変わっていき、これまで全然なんとも感じなかったシーンで大粒の涙が流れるようになったであります!
なので、この映画、1回だけ見て感動した人はもちろん、釈然としない感想を持った人も繰り返し見てほしいと思うであります!(と言ったところで、期待はずれの映画の2回目に行く人なんてのはまずいないでありますが・・・)。
とにかくこの作品は、繰り返し見れば見るほど感動が高まる変な映画であります!
というのも、繰り返し見るうち、他の誰でもない主人公「帆高」の気持ちがよく分かるようになるのであります。
彼の行動原理(つまり、16の子どもの恋愛感情)を、僕たちが思い出す(ああいう時代は俺にも君にもあったのであります)ことで、この映画は何倍にも感動するように作られているのであります。
その通り、子どもの激情こそが、あの映画のキーなのであります!
それを取り戻すためには、映画繰り返し見るという他にないのであります、それが分かったらさっさと今夜のレイトショーの予約をするのであります!
3.ガキって基本、あんな感じであります!
帆高の行動は、大人達から見るとまさに非合理の暴走そのものであります。
生活のアテもなく東京へ家出する、カっとなってピストルをぶっ放す、保護しようとする警察から逃げる、しまいにゃ自分の好きな子のために天気をめちゃくちゃにしてしまう!!
これをもって、大人の視聴者からは「自分勝手な映画」だとか「天気の子ではなくて能天気の子」だとか、いろいろ批判がされているようでありますが、でも、それはやっぱり「大人」の見方でしかなくて、それはとても偏ったもののように思えるであります!
そもそもこれは世界を救う話じゃなくて、一人の子どもの青春映画なんであります!
というのも、16のガキというのは普通、世界を救おうとか思わないのであります!!
16歳にとっての世界はまさに自分そのものなのであります!!それを言い換えて、自分勝手だとかいうのであります。
これは断言できるであります。
世界は自分のものなのだから、何したって構わない。しかもそこへ「恋」が絡んでくるでありますから、そうなると、話はむしろ逆となり、この子の為なら悪魔にでも魂を売り渡す!!
とか、そっちのほうの(どちらかと言えばドス黒い)エネルギーに変換されるのであります!
この点、よく似ているのが「エヴァンゲリオン新劇場版:破」であります。
みんな見てないだろうから簡単に言うと、この映画のラストでは好きな女の子を取り戻すために、主人公がエヴァを暴走させて世界を破滅させる!
エヴァはまさに10代の「チルドレン」の激情をテーマにした作品でありますが、あれと非常に似てる内容だと感じたであります。
ただそのことを考えただけで、世界の他の全てのことが黒いカーテンにかけられたように何も見えなくなる、10代の恋とはそういうものであります。ご飯も喉を通らないのであります!
これは俺の想像じゃなくて、君にだってそういう時代があったはずで、それを単に忘れているだけなのであります!
大人になる過程で忘れているのであります!
そんで、その激情を忘れてしまっていると、劇中で帆高が陽菜のために放った2発の銃弾が理解できないのであります! あのガキ、キレるの早すぎじゃねとか思うのであります!
俺は、最初の1発(金髪のスカウトに向けて発砲したもの)について、帆高は本当に金髪を殺してもいいと思ったんだろうと想像するであります。それが10代の恋が生むエネルギーであります!
(物語終盤の2発目をしっかり空に向けて撃ったのは、大人の須賀と生活するうちに帆高が社会性を身に着けたからであります!)。
そうした激情を行動のエネルギーにしている子どもたちに対して、
「普通は警察の保護求めるでしょ」だとか、「親元でまともな生活を」だとか言うのは、全部、大人たちの「正しく間違った」コメントだと俺は思うのであります。ガキはそんなの聞きゃしねー生き物であります!
たまに、スーパーのお菓子コーナーで腹ばいになって泣き叫んでいるガキんちょに手を焼いた親が、こんこんと合理的な説教をしている場面に出くわすでありますが、そんな話を聞いてわかるようならわざわざガキやってねーよと、こういうわけであります!
そして、映画の最後では高校を卒業した後の帆高が、東京の天気をこんなにしてしまったことを悔やむシーンが続くでありますが、これは、大学生というある程度の大人になったことで、世界が自分だけのものでないという事を実感してきた、その変化なのであります!
4.「大人」と「子ども」の戦いであります!
このように、あの映画は、終始、「大人と子ども」を対比させ、「大人になるとは何か」をテーマとして進行していくのであります。
子どもはもちろん帆高と陽菜、凪くん、それから夏美さんであります!
そして大人は、須賀さん、須賀さんの義母、刑事、東京の人たち、そして後述するように「君の名は」の瀧くんと三葉であります! というか主人公たち以外ほぼ全員大人であります!
(関係ないけど、瀧くんと三葉の登場シーンは本当に素晴らしいファンサービスだと思うであります。うっかり興奮して立ち上がり、ポップコーンのバスケットを振り回しそうになったでありますが、上映中の迷惑になるからやめたであります!
聞けば「君の名は」にも、前々作「言の葉の庭」の先生が出てきたそうであります。
「天気の子」のあとの東京は、3年間雨が降り続いているはずなので、ここへ出てきた瀧と三葉は既に再開した後(「君の名は」の再開シーンでは連日晴れていた)だと想像できるであります。エンドロールで三葉の苗字が「立花」に変わっていたらな~~!と思って凝視していたけれどさすがに「宮水」のままだったであります! オタクの願望乙であります!
追記:「君の名は」ラストシーンは2022年のこと、天気の子は2021年のことで、単純な時間軸で考えると天気の子の時点では再開する前の話なんだそうであります・・・。
更に言うと、ここから東京はずっと雨が降って水没してしまうから、瀧と三葉は例のプールじゃなかった例の階段で知り合えず、従って、2024年に帆高が瀧のお婆ちゃん宅を訪ねた時に飾ってあった瀧の結婚写真(そんなのあった?! っていうか瀧ってまだこの時点で24歳だけども・・・)については、三葉以外の方との写真なんじゃないかという推察もあるらしい・・・。
しゃらくせえ!!!!
あのな、一回身体入れ替わってんだぞこっちは。
雨降ってるから出会えないとか時系列がおかしいとか、なめてんじゃねーぞ!
タイムフライヤーだぞ?!
瀧くん言ってたろ「お前が世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」って。「スパークル」の歌詞にもあったろ、「運命だとか未来とかって言葉が、どれだけ手を伸ばしても届かない場所で僕ら恋をする」って!
たとえどんな手段を使ってでも三葉と再会して、幸せにやってるに決まってんじゃねーか!
(なお、君の名はのラストシーンは2021説というのもあって、それだとまったく矛盾しない。天気の子のラストで出てきた結婚写真は、三葉とのものってわけ。
というか、矛盾するかどうかに関わらず、あの二人の絆は超自然的であって、細かいことなんざどうだっていいんだよ、まったく!)。
・・・そして、その「対比」の中で、大人も子どもも、それぞれに正しくて、それぞれに間違っていることをぶつけ合う中で、俺たち大人が忘れてしまった大切なものってなんだろう、という大きなする問いかけが出てくるのであります。
裏を返すと、大人になるのは、合理的になることの一方で、本当に大切にしなくちゃいけなかったものを一つづつ忘れていく作業なのだと感じさせられる映画なのであります!
劇中でなにかと帆高の世話を焼く須賀さんは、まさにそうした大人の代表であります。
愛する妻を失った後、今も自分の子どものために義理の母に頭を下げ続け、また、警察から追われる身となった帆高も追い出す。天気のためなら陽菜も人柱になればいいとすら発言するのであります。
ここで大切なこととして、これらは全て合理的で、大人として正しい行動だということであります。でもその正しい大人の行動は、帆高たち子どもには(ついでに姪の夏美にも)理解されず、逆に攻撃されるのであります。
これをどっち目線で見るかによって、作品の感じ方が正反対になってしまうのでありますが、物語の最終局面で、愛する人を失った悲しみ、会いに行くことができなかった悔しさを思い出した須賀さんは、警察に対して「お前ら(=大人)が、帆高に触るな!」と叫び、刑事を殴る!! 須賀さんのこのパンチこそが、この映画の答えであります!!!
警察にパンチなんかして捕まったら、それこそ子どもには会いづらくなるであります。大人として全く非合理的だけど、これが、10代の恋がなせるわざなんだよと、この映画は言っているのであります!
お前達、映画館にまで大人の合理性を持ってくるなであります!
また、夏美は、そうした激情ではなく、たぶん「曲がったことが嫌い」だとか「面白そうだから」くらいのノリで帆高に協力する「子ども」なんであります。
大人はそんなノリで警察に捕まるようなことは絶対しないだろうけれど、子どもはそういうことするのであります。日頃ニュース見てるか? であります!
逃げ回っている時の夏美は、大人として就職活動している時よりもずっと楽しそうだし、ついでに「白バイ隊員になろうかな!!」と発言しさえもするであります。皆さんも御存知の通り、子どもというのは、口をひらけばすぐ「ぼく○○になりたい!」って言うものであります!
5.子どものほうが羨ましいであります!
繰り返しになるでありますが、このように、「天気の子」は、大人達と子どもたちの「みんなが正しくてみんなが間違っている戦い」を見せることによって、大人になるってどういうことなんだろう、でも、それって本当にハッピーなんだろうか? その過程で、本当に大切なものを忘れてないだろうか? と問いかける映画となっているであります!
でも、結局その答えは明示的に語られないまま、最終的に東京が水没することで、「大人のまま」だった視聴者にとっては「てめーの恋のために東京破滅させてんじゃねーよ」という感想を持つことになるのであります。
でも、これは損な見方だと思うのであります!
また、そうした見方があることはもちろん想定されていて、その上で、作中の刑事が次のようなことを言うのであります。
【彼(帆高)は、もう自分の人生を棒に振っているわけでしょう。そこまでして会いたい人がいるというのは・・・私なんか(大人)からすると、ある意味羨ましいであります!】
(注:実際のセリフはこんな語尾ではないであります)
このセリフこそが、この映画の言いたいことを代弁しているであります!
平たく言えば「若いっていいなあ!」ってことでありますが、大人の口から気軽に発されるこの言葉、当の大人たちは本当に理解しているか? ということであります。
「若いって良いなあ」ってのは、実際に、好きな子に会いたいがために、警察の前でピストル撃つことであります!
それを見て、馬鹿だの向こう見ずだの言ってるんじゃ、「若いって良いなあ」は結局のところ皮肉か、大人になってしまった自分たちへの諦めの言葉にしかなっていないであります!
そして、そんな大人たちの見方だけでこの映画を終わらせてしまっているのはとっても勿体ないと思うのであります。
できれば、この刑事(大人)の言うように「ある意味羨ましい」見方をしたらいいんじゃないかと思うのであります。心の底から「若いって良いなあ、俺も、こういう恋愛していたよ」と重ねて見たら良いと思うのであります。
また、既に大人たちから「あんな結末で感動できるなんて能天気」だとか言われちゃった人たちは、そういう大人たちにとって(嫌味抜きで)まさに羨ましい存在なのだから、そうした批判を見て興ざめする必要なんかない、素直に感動して正しいんだということを、ここで言っておきたいであります!
6.「君の名は」とは違うのであります!
そういう意味で言うと、「君の名は」はどちらかと言うと「大人」の話だったように思うのであります。というのも、きちんと彗星から「町全体」を救おうとしたのは、立派な大人の行動だからであります!
これが「天気の子」だったらどうなるかというと、町から三葉と二人だけで逃げ出すか、むしろ二人の恋を成就させるために、糸守町に彗星をわざわざ落とすであります!!
だから、「君の名は」のつもりで「天気の子」を見に行くと、そのギャップによって、余計に帆高たちの行動を非合理で身勝手だと感じてしまうのであります!
「君の名は」の瀧と三葉は、帆高と陽菜に比べて、年齢的にも、精神的にも「大人」だったので、「みんなを救う」という責任ある行動をとったのであります。
一方で、天気の子の子どもたちは、それと正反対なことをするのであります!
その理由は、帆高と陽菜が、瀧や三葉よりも、もっとずっと子どもだったからであります!
皆さんご存知のように、「天気の子」にも瀧と三葉は出てくるのでありますが、彼らが帆高をサポートする「大人」として登場するのは、その対比のため(君の名はと、天気の子の違い)でもあるんじゃないかと個人的には思うであります。
このことは、天気の子の劇場版パンフレットのインタビューで、新海誠監督が【「君の名は」の後で、彗星から町を救ったことについて「自分たちの勝手で歴史を塗り替えたけしからん作品」という批判があった。だから次回作は、彼らを更に怒らせるにはどうしたらいいか、というところから始めたのであります!】と述べていることと無関係ではないように思うであります!
瀧と三葉が大人として登場するのは、単なるサービスにとどまらず、「お前ら、俺たちみたいな【大人】にもキレてたら、この映画、この先ヤベーぞw」と言っているようにも感じるのであります!(そして実際に、これを見た大人はやっぱり批判タラタラなわけでありますから、新海誠的には大成功なのだろうと思うであります)。
7.「大丈夫」ではないであります!
「天気の子」のラストシーンでは、水没した東京で帆高が陽菜と再開するのでありますが、そこに合わせてRADWIMPSの「大丈夫」が流れるのであります。
そして、帆高の「僕たちは、大丈夫だ!」という力強い一言で、全ての物語が終わるであります!
ここで、大人たちはこのように言うであります、「いや全然大丈夫じゃねーだろ、東京沈んでんだろ」。
でも、RADWIMPSの「大丈夫」の歌詞をきちんと見ると、ここはそう解釈すべきではないことがわかるであります!
次のフレーズは「大丈夫」の歌詞からの抜粋であります!
【君を大丈夫にしたいんじゃない、君にとっての大丈夫になりたいのであります!!】
これはな、結局のところ、大丈夫になってはいないのであります!
でも、自分と一緒にいたら、君は安心できる、そういう存在にこれから成長していきたいという話であります!
どんな大丈夫じゃない世界でも、大丈夫だと思ってもらいたい、自分がその心の支えになりたいという少年の願いなのであります!
そう、だから、「結局大丈夫になってねーよ」というのは批判になっていないのであります。
大丈夫じゃない、でも、僕がいたらどんな世界でも大丈夫だって思ってもらいたいという純粋な願いを書いていて、この映画はそれで終わりなのであります!
ついでに言えば、1.水浸しの東京でも水上バスなどで前向きに生活する東京の人たちとか、2.この世界なんて元から狂ってるもんだと言う須賀さんとか、3.東京は昔は海だったと言う立花の婆ちゃんとかっていう、「救い」はあちこちに見られるであります!
だからたぶん大丈夫であります!
番外編. あのブラは一体誰のもの? であります!
言いたいことは以上でありますが、ところで、3回ほどこの映画を見て、まだ分からないことがあるであります!
映画の序盤で、須賀さんの会社で働きはじめた帆高が、部屋を掃除している途中でブラジャーを見つけ、夏美から「これ私のじゃない」と言われるシーンでありますが、じゃあ誰のものだよ?! であります!
初見の人は「須賀さん女ったらしだなー」と思うでありますが、最後まで見ると、いまだに亡くなった妻の指輪を重ねてつけているくらいの誠実な人物であることがわかるであります! だからこのブラ誰のであります!
とはいえ、劇中には須賀さんがキャバクラで飲んだくれているシーンもあるでありますから、やることはやっているのかもしれないであります!
あとそもそもエッチした後にブラって置き忘れるものなのか? であります!
俺はブラしたことないからわからんであります!
まとめ. タンクトップと短パンで映画館に行くであります!
ぐだぐだ述べてきたでありますが、要するにこの映画は「合理的な大人」と「青春の子どもたち」の戦いであって、そのどちら側で見るかによって(つまり、帆高に共感するか、自分も警察の仲間となるか)人によって視聴後の感想が正反対になるよくできた映画なのであります!
そして、作中ではどっちもきちんとした悪者になっていないから、子ども側の人は感動して、大人側の人は最後まで大人側でモヤモヤするであります!
でも、作中でも刑事が言うように「子どもは羨ましい」のであります。
それなら、自分の青春時代の非合理な行動と、嵐のような愛の激情を思い出しつつ、「うんうん、子どもってこうだよな」って目線で見てみるのが良いであります。
そうするとめちゃくちゃ泣くであります!
私にゃそういう青春ございません、昔っから斜に構えて、擦れっ枯らしたここ東京で暮らしてきたであります! という人も、たぶん大丈夫であります! そうは言いつつ忘れているだけであります!
良い方法があるであります! 当時の子どもの頃のように、短パンとノースリーブで劇場へ行くのであります。夏休みだし、ついでに虫取り網と、虫かごを持っていってもいいであります!
ただし、大切なことがひとつだけあるであります!
上映中の迷惑になるから、虫取り網はきちんと床に置くであります!