俺は20代の独身時代から「結婚したら子供がほしい」と思っていて、SNSでもそんな話を憚らずしていた。思い返すと痛いやつだ。
そのことで、俺は(子供を望まない)フォロワーから「そんじゃ結婚した相手が不妊だったら離婚するんですか?」などと言われたこともあった*1し、面と向かって「なぜ子供なんか欲しいのか」と聞かれたこともある。
「なぜ子供なんか欲しいのか」、20代の俺は、口では子供がほしいと言いつつ、実はきっちりと他人に話せるような理由が整理できていないでいた。
「ただ何となく」よりは強い気持ちはあったけれど、「こういう理由で子供がいるのが合理的だと考えているからです」という理屈を整理しているわけではなかった。
きっと、子供なんか要らないと結論付けた人は、考えなしに子供を持って(自分も、子供も)苦労をしないよう、子育てや自分のこれからの人生について人一倍考えたのだと思う。
経済的にも、肉体的にも(出産は命の危険がある)、自分の時間的にも、子供を持つのはたくさんデメリットはあるだろうし、くそうるさい子供を愛する自信が全く持てないから、きっと虐待してしまうのではないか、という懸念も立派な理由だと思う。
そんなふうに人生をしっかり考えている人たちから「なんで子供なんか欲しいの?」と聞かれたとき、子供がほしいと言いつつしっかりと理由が言えない俺は、自分の考えの無さっぷりを自覚し、情けなくなったし、悔しかった。そんな覚悟で子供が欲しいとか言っていたんですかと。
冒頭でも触れたが、昔、SNSのオフ会で、子供を持つ予定の無い男性から「なんで子供なんかほしいの?」と聞かれた時、俺は、苦し紛れに「自分の遺伝子を持ったもう一人の人間を子孫として残せるなんて素晴らしい」的なことを安易に言ってしまった。
そしたら「そんなナルシズムは、俺にはないなw」などと言われた。
それが悲しくて、言われた日から10年近く経つけど未だに覚えている。
俺の、子供がほしいと思うこの気持ちは「ナルシズム」の一言で説明されるものなのか。
自分の子を見たらどんなに可愛いだろう、お世話をしたらどんなに満たされるだろうと思っていた俺は単なる「ナルシスト」なんだろうか。
30代になって、自分に実際に子供ができて、子育てを1年間経験した。
その上で、改めて「なぜ子供なんかほしいのか」に対する答えを考えてみると、「そんなことにいちいち答える必要はない」というしかないことに気がついた。強いて言えば、「それが自然だから」しかない。
思えば、なるべく頑張って長生きして、繁殖していくというのは、生態系にとって極めて自然なことだ。それを「なぜ」と聞かれても仕方ない。
なぜ人は生きていくんですか? というくだらない禅問答と全く同じだ。
でも、最近の風潮だと、なかなかそのことを「自然」とは感じないようだ。
もっと言えば、生きることや、恋をすることも、「なんでそんなことするの」と立ち止まって考え込んでしまうような、どちらかというとネガティブな経験を多くしている気がする。*2
でも、俺たちの周りがそんな絶望に満ちていたとしても、科学的にも、歴史的にも、他の生物と同様に、子供育て、生態系を繋いでいく側が自然であって、それに抗おうとする側が不自然だと思う。
そうであるならば、「子供なんか必要ない」と不自然なことを考えている側がむしろ「なぜ子供がほしくないのか」という説明責任を一方的に負うのであって、俺たちには答える義務なんかないと思う。
子供が不要な理由、例えば経済的なこと、肉体的なこと、自分の時間が全く無くなってしまうこと(重要なこととして、これらのいずれも、極めて重大なデメリットだ)を説明して、自分は子供を作らなければ良いだけであり、いちいちそれを他人に聞くんじゃねえと言いたい。*3
しかし、俺がこのように考えるようになったのは、不思議なことに、妻の妊娠と、子育てを経験してからだ。
それまでずっと「なんで子供がほしいのか」について、具体的で、合理的な理屈を探していて、子供を持つからにはそれがきちんと整理されなければ、まっとうな大人とは言えないんじゃないかと思っていた。
自分が子供を持つ理由をきちんと持っておかないと、きちんと愛せないのではないか、子育てに悩み続けることになるんじゃないかと不安だった。
でも、生まれてきた子供とこの一年間一緒に暮らしてきて、事前にそんな整理が必要だったと思ったことはない。なんとなく、子供がいる人生が普通だと思うし、きっと愛せると思った。これで十分だと本気で思う。
というか、「私はこういう理由で子供がほしいです」って極めて強く考えている人のほうがむしろ危ういんじゃないかと思う。その理由が、子育ての最中に崩壊してしまったら、いったいどうなるんだろう?
で、結局、今回のブログでは何が言いたいのだろうか。2つある。
1つは、自分は子供がほしいと思っているのに、周りから「子供なんかやめときなよ」「なんで子供欲しいのか理由言ってみ?」などと反対され、悔しい思いをしている人に向けた注意喚起だ。
そんな周囲には「お前にそれを説明する必要はない」と言えばいい。
「お金が相当かかるらしいよ」「自分の時間は一切なくなるらしいよ」くらいの話だったらまだ聞く価値はある(そしてそれらは、たいてい事実である)けど、世の中には「反出生主義」とかいって、自分が恵まれない子供生活を送り、生まれないほうが幸せだったという個人的経験から、「子供というのは不幸な存在なのだ」などと話を一般化したあげく、他人に対して子供を産ませないよう活動する人たちがいて、そういう連中と交流するとただ不幸になる。
彼ら、彼女らが愛するのはただ「無」しかない。「私はいま苦しい。産まれてこなければ苦痛も苦しみもなかった。だから子供を産むのは間違っている」というのが彼らの理屈の本質だ。*4
それはそれで良い、否定はしないし、君の個人的経験は可哀想だと思う。俺が言いたいのは、ただそれを他人に押し付けるんじゃなくて部屋でじっとしていろということだけなんだ。
彼らは自分たちみんなで「無」になりたいのであって、子供を生んでその「無」から遠ざかろうとするあなたが妬ましいだけだ。相手にすると不幸になる。
「お前にそんな説明をする必要はない」と言って険悪になるのが怖いなら、「自分の素敵な人生を可愛い子どもにも歩んでもらえると思っただけでハッピーで、考えただけで自分が産まれてきたことを神様に感謝したいくらい嬉しい!」と言えばいい。「考え方の土台がまるで違う」ことを悟って、そういう存在自体が不幸な連中は自然といなくなるだろう。
2つめは、子を持つにあたって、自分はなぜ子供がほしいのかきちんと整理しなきゃいけないんじゃないか、と思って踏み出せない人に向けた励ましの言葉だ。
きちんとした考えなんかなくて良い。なぜなら、子供がほしいと思うほうが動物として自然なことだからだ。子育てをするにあたって、それ以上の理由なんか特に必要としていない。
ただし、あなたが、毎日20時間酒を飲んでいたり、稼いだお金のほとんどを洋服か酒の支払いにあてるか、婚姻していない他人に貢ぐことに喜びを感じていて、子供が産まれた後でもそれを改めるつもりがなければ、その時は真剣に「なぜ自分は子供がほしいのだろう」と自問自答した方がいいと思う。子を持つべきではない人というのも、やはりいるのだ。
でもそれは、明らかにネグレクトや虐待が発生すると決まりきっている特殊な場合だけだ。
世間ではそんな30万人に1人くらいのニュースが取り沙汰されまくっているから、自分もそうなるに違いないと感じてしまうバイアスがある。実際、そんなことは起こらないとみなしていいくらい小さな確率だ。
素敵な可能性を、本当は無視できるか、自分の努力でどうにでもなることを心配して諦めてしまうのは悲しいことだ。