会社の飲みの席で、「俺が世界で最も憎んでいるのはシイタケだ」という話をするたび、決まって不思議そうな顔をされながら「あれ美味しいのにww」と言われる。
こうした経験は、食べ物の好き嫌いが多い皆さんにもあるだろう(なお、この時に不思議そうな顔をされるのは、シイタケがどうしてそんなに嫌いなんだろうという疑問か、または会社のプロジェクト成功を祝う打ち上げの場の開口一番でシイタケの話なんかおっ始めた俺の人格への疑問かのいずれかが考えられる。でも今回言いたいのはそういう話ではない。)。
人はなぜ、他人が「○○を食べるのが苦手」と聞くと決まって「あれ美味しいのにw」と言うのだろうか。
「シイタケ嫌いなの?? 美味しいのにw」などと言われるたびに俺は、やれやれまたかとうんざりしつつ、中学生ほどの大きさがある巨大シイタケをずっぽりと山から引き抜いてきて、それをまるで野球バットのように振り回してはその発言者を散々引っ叩いたうえで「だから何ですか?」と言ってやりたい衝動に駆られる。(ちなみにシイタケはほとんどが繊維質なので、力いっぱい叩かれてもそんなには痛くない。もっともシイタケで人叩かれたこと2年ほど無いけど。)
良いですか、俺がシイタケを親の仇のように憎んでいることと、他人がシイタケを好きだと感じていること、その間にはまったくの別宇宙があるが如く、両者には何の関係もないんだ。
それを言うんだったら、例えば俺が「え、ゴリラ嫌いなの? あいつめっちゃ美味いよ??」と言ったら、あっそうだったんですねとか言ってゴリラ食うんだろうな!? ゴリラ食えよ!!!!! と思う。俺だってもういい年になって大人気ないかと思うけどそう言いたくなる。
少なくとも、他人に美味いと言われたゴリラを素直に食べてみようかなと思う気持ちになれる人だけが、「あれ美味しいのにw」などと他人に言うべきだと思いませんか。これを俺は「食べ物の好き嫌いゴリラ論法」と勝手に呼んでは愛用し、愛用しては友達をなくしているところだ。もっとも、ゴリラが美味いとかいうのは単なるたとえ話であって、俺がゴリラ食ったことなんてここ2年くらいないけど。
とはいえ、そこで本当に「あ、そうなんですか!へ~ゴリラって美味いんだ!」とか言って、後日、バナナと鉄柵を巧妙に組み合わせた巨大な罠を手に「天気良いし、今日どうですか、ゴリラw」とか笑顔で言われたらすごくイヤなので、今日も俺はただ黙って巨大シイタケで引っ叩くのみにとどめるのであった。みんなは人の好き嫌いに口出すなよ!
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食べ物の好き嫌いの話でいえば、まだある。
食べ物を好き嫌いなく何でも食べるのは「育ちが良い」「品がいい」とされ、他方で、苦手な食べ物ばっかりある俺は子供の頃から蔑んだ目で見られてきた。
でも、その「好き嫌いなくなんでも食べる」という、その「なんでも」の範囲なんて、現代の俺たちが囲まれている豊かで美味しい食べ物に限った話なんだ。
俺は思う。お前好き嫌いないんだったらゴリラでも食えるんだろうなと。
これは「食べ物の好き嫌いゴリラ論法」の応用だ。
アフリカ中央部のルワンダの奥地に住まう、とある原住民族では、捕らえてきたゴリラをそのまま湯で煮た食べ物をご馳走としている。
食べ物の好き嫌いがないとドヤ顔して憚らないあなたがその村を訪れた際も、当然その「ゴリラの姿煮」は豪勢に振る舞われることだろう。おかわりまであるかもしれない。
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ゴリラ食えよ!!?? 食べ物の好き嫌いなかったらゴリラ食えよ!!!!! おかわりまで食えよ!!!
などと俺は、「わたし食べ物の好き嫌いないんです~」などと自慢気に語る人物を前にした時に心の中で言ってやってるし、何回かに一回は無意識に「ぶつぶつ・・・ゴリラの姿煮・・・ぶつぶつ・・・」と声に出して言ってしまっているくらいだ。
もっともそんなゴリラを食う村なんかここ2年ほど訪れていないけど。