【ネタバレ感想】007ノー・タイム・トゥ・ダイ(余りに寂しく、不可解な映画)

10月2日(土)に007の新作「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」を見てきたので、その感想を書く。

俺だってキモオタ向けあにめ映画以外だって見るんだ。
完全なネタバレを含むので、これから007を見るつもりの人は、ご注意を。過去の記事など(例えば実家を火事にしかけた面白い話など)をご覧ください。

 

 

 

以下ネタバレ含む感想。

 

あまりに寂しい映画

この映画を見てからというもの、何度か感想を書いてみようと試みた。

でも書くたんびに、いつもの長大な、とりとめのない話になってしまうので、いっそのことシンプルな感想を書いてみた。

 

「寂しい」

それがこの映画の感想だと行き着いた。

その寂しさの出どころについては、本作でダニエル・クレイグのボンドシリーズが終幕したという事実ももちろんある。

でも、この映画が醸し出す圧倒的な寂しさは、それだけを原因にしたものじゃない。

というのも、この映画のストーリーは、最初から最後まで、まるでセピア色の写真を見ているかのような、寂しく、弱々しい、人生の終わりや哀愁を感じさせるものなのだ。

 

そして、この映画を見に行ったほとんどの人がそうであるように、俺は007の映画にそういった寂しさを一切求めていなかったから、本作のストーリーには相当モヤモヤするものを感じた。

そのモヤモヤが極大化するのが例のラストシーンで、やっぱり各レビューサイトで物議を醸しているようだ。

俺も、映画の終盤でラスボスが言い放つ「誰かの記憶にのこることで、人生には意味が生まれる」という分かりやすいテーマのために、あのラストシーンがボンドに用意されたのだとしたら、悲しいし、脚本への怒りも感じる。

 

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俺たちが見たあの男は、本当にジェームズ・ボンドだったんだろうか?

俺たちの知っているボンドは、冷徹で、非人間的で、女好きも任務と祖国のため、何の躊躇いもなく人殺しをして、どんな困難を前にしても諦めない無敵のエージェントだった。

 

ところがこの作品のボンドは、現役を引退し、妻子をもち、そして老いていくだけ。

罠という罠にも平気でかかる、人の裏切りや焦りも見抜けず激高する、MI-6では新007から老害扱いで、完全に隠居した爺さんのよう。こんな弱々しい男がジェームズボンドなの??

 

でも、妻子を持ち、仕事を引退した男への扱い方としては、このストーリーはある意味正しい。

というのも、生物学的に、子が生まれると、男には生きる意味が無くなるんだという。

そのとおり、妻子をもった時点で、これまで何もかも「銃!車!セックス!」で突破してきたボンドは死んだかのようだった。

映画の終盤で、ラスボスがボンドの子を盾にしたとき、ボンドはうろたえ、(演技であっても)深々と頭を下げる。

あれこそが「守るもの(弱点)を背負ってしまった男」であり、非常に弱い存在として俺には見えた。そして、例のラストシーンでは家族を守って、名実ともにさようなら。

 

これはまるで、男の人生の、とりわけその終末期だけのダイジェストのよう。

そんなふうに「男の老いと死」がテーマとなっている本作は、ものすごく寂しい印象がある。

 

でも、老いと死は無意味じゃないと、この映画は示唆する。
彼は「英雄」として、MI-6の、そして何よりも大切な妻子の記憶として残ったのだ。

無意味な人生ではなかったんだ、よかったなあボンド!

このように「死して名を残す英雄」だとか、あいつはみんなの心の中に生きてるぜ!で全部OKになるのは、アベンジャーズの「エンドゲーム」と全くおんなじで、これが今の外国映画の流行りなのだろうか?

そういうの見に来たんじゃないんだけどな~と心から思った。

 

そんじゃ、俺は何を見たかったのか?

ラストシーンでいえば、あのミサイル攻撃を華麗に受けながし、よくわからん毒素も取り除いたボンドが、例のテーマソングをBGMに、颯爽とアストンマーチンを滑らせる。

そんな映像を出そうもんなら途端に陳腐な娯楽映画に思われてしまうだろうが、もともとのボンド映画ってほんと、ご都合主義の、男の子が好きな秘密兵器だとか女とか酒とか詰め込んだバカ映画だったんだと思うんだよね。

 

でも、ただスーパーマン的なボンドばかりではワンパターンだから、そこからの脱出を図った「カジノ・ロワイヤル」では、まだ皆さんが知らないボンドを見せましょうといって、荒々しく、若く、人間味のあるボンドを登場させてみせた。

そこからの成長物語としてクレイグのボンドシリーズは続いていき、その成長の最後に待ち受けるのが「老い」と「死」なのは人間である以上逃れようがないけれど、俺としては最後までご都合主義の娯楽映画であってほしかったなあ〜と思う。

こんな人間味を追求するような映画でしたっけ?

少なくとも、最初のカジノ・ロワイヤルで見せた「人間味」は、彼にはこんなところもあったんだよ、という「チラ見せ」だったように思う。

寿司に少しだけつけるワサビのように。

ところが最終作では全部が全部「人間味」で、これをメインに据えられると、もはやそれは007ではないんじゃないかという気がしてならなかった。

 


敵のやりたい事も、よくわからん。

ところで、さっき「よくわからん毒素」と書いたけれど、映画見てきた人たち、あれが何なのかわかりました? 俺にはよくわからなかった。

何だか、ボンドとスペクターの禍根の裏で、もっとタチの悪い奴らが、何かとんでもない事をしようとしてるのはわかる。

でも、具体的に誰が何しようとしてるのか、最後の方まで見てもよくわからないんだよね。

スペクターの残党と「そいつら」という2つの敵が出てきてるのも分かりづらさに拍車をかける要因になっている。


ラスボスの身の上や振る舞いも謎が多い。

過去に、ホワイトに家族を皆殺しにされて、その復讐をして回っているのはわかる。
でも、そいつが何でレア・セドゥだけ助けたのか、能面の意味は結局何なのか、なんで成長してから毒工場なんか作ったのか、なんでブロフェルドを含むスペクターを皆殺ししようとと思ったのか(あ、そっか。ホワイト(=スペクター)への復讐か)、なんでボンドの娘に手を噛まれたくらいであっさり開放したのかその後になんで一人でノコノコとボンドの前に戻ってきたのか・・・。

まじでわからんことだらけ。

 

このように敵の行動もわからないことだらけで、はっきり言えば狂ったサイコパスだとしか思えず、そこもモヤモヤする点だった。

「結局あいつ、何だったの?」ってみんな思ったんじゃないかな。

 

ラスボスの行動原理について、推察しようと思えばできないこともない。

家族を殺された自分とレア・セドゥを同一視して助けたものの、自分とは違って新たな家族を持ったセドゥが許せないと思い再び現れた。自分には家族がいないから記憶してくれる人もいない、だから遺伝子に作用する毒をつくることで生きた意味を作りたかった・・・。

最後にボンドの前に現れたのは、「誰からも記憶されない孤独な人」として同一視していたボンドが、万が一生還して、セドゥや娘と幸せに過ごすことが許せず、せめて毒を塗りたくることで家庭崩壊させてやろうとしたのではないか。

 

こんなふうに想像を働かせてみても、やっぱりサイコ気味の構ってちゃんって以上の存在に思えない。

3時間もある映画なんだからもっと説明してほしかった。

 


Mが無能すぎる

3時間のうちに説明してほしかったことはまだある。それが「ヘラクレス計画」とやらだ。

 

事の発端は、Mが極秘裏に進めていたヘラクレス計画(首相にも内緒???誰の意思決定だったの??)が敵に利用されたことで、いつものとおり地球の危機になるわけ。

で、ボンドがそれを阻止するんだけど、Mのやつ、そんな独断で地球を危機に陥れていたら、ふつーはクビだし、何なら逮捕されるよなあ!? 

それが、Mには何のペナルティもないようで、ラストでも普通に仕事を続けている。ボンド一人さようならしておしまい。


そのこと自体は「重箱の隅」かもしれない。でも、3時間もあるくせに、そもそも中核となるこの「ヘラクレス計画」がなんで生まれて、具体的にどういうものかって説明が少ないから、何だかふんわりと「やばい計画が敵に乗っ取られた」くらいにしか思えないんだよな。

敵の目的の分かりづらさに加えて、舞台設定もよくわからないのが、この映画のモヤモヤの濃度を高めている原因だ。

Mは前作スペクターではかなりかっこよかったけど、今作ではあまりに無能すぎでは?


新007が無能すぎる。

映画公開前から話題だったが、007を引退したジェームズ・ボンドに代わり、本作では「新007」として黒人女性が登場する。が、これがもう、映画館のみんなをイラ立たせるほどの無能っぷりで非常にイライラする。Qは毎回いい仕事するけど、他が揃いも揃って無能揃いのMI6って大丈夫なのか??


とりわけ、ボンドがノルウェーの森の中で戦い、妻子が連れ去られた後でようやく新007がノコノコと現れた時にゃ、映画館で見ていた僕らも、劇中のボンドも、まったく同じことを同時に思ったろう。
お前いままでどこで何してた?


で、最後にはやっぱりボンドにとってかわって活躍するかと思いきや、ジェームズ・ボンドを007に戻してください」だと。はい~?! 

そこはお前が意地でも奮起すんだろふつー!

仕事が手に負えなくなってから前任者に泣きつく無能な社員にしか思えん!

 

また、その後、ボンドと一緒に敵基地に乗り込むんだが、敵側の科学者からちょっと差別的なことを言われただけで、そいつを平気でぶち殺す! えー!! 今まで苦労して生け捕りにしようとしてきたのに?!

俺は映画の最初から最後まで、この無能な新007が存在する意味がよくわからなかった。

この映画と構成がにている「エンドゲーム」で、トニー・スタークの代わりに若いスパイダーマンが大活躍したように、世代交代がテーマならば、新007は「もうジェームズ・ボンドは必要ないんだ」と分からせるくらい、めちゃくちゃに強くなきゃダメなのに、存在価値がわからないような新人が出てくることでそのお題目もボヤけていた。

 


CIAエージェント(パロマ)だけはよかった。

この寂しく不可解な映画で唯一スカッとしたシーンは、やっぱりキューバでのバトルだろう。

ここで、ボンドは一時CIAと手を組み、いつものタキシードでスタイリッシュに戦う!
こういうのでいいんだよ、こういうので!!!

 

また、この時にパートナーとして手を組んだCIAエージェントのパロマアナ・デ・アルマス)がすごく可愛くてかっこいい!! 新人エージェントとしての初々しさや豪快さがアクションに表れていて素晴らしかった。
彼女をボンドガールにして2時間のアクション映画にしたらよかった。

また、仮に、クレイグの次の007が女性になるならば、どういう経緯かでCIAからMI-6に移籍してきたパロマがいいなあと思った。

 

うん、それなら必ず見る(男性007とは違って誰かとエッチするシーンは不要だと思うけど)。そうでなくてもスピンオフとかで再登場してほしい。彼女の登場があれっきりなのは余りにもったいない。

 

もっとも、彼女の登場シーンに違和感がまったくなかったわけではない。

ボンドがパロマと会った時、ボンドからの合言葉の確認に対してパロマ「私、緊張すると合言葉なんてすぐ忘れちゃうの♡」などというどうみても裏切り者だとしか思えない発言をするんだが、ふつーに味方。あ、本当に、単に緊張していただけなんだ・・・。

でも、合言葉が未確認のまま、ボンドはホイホイとパロマに付いていってしまう。

過去に「007 ゴールデンアイ」では、合言葉をはぐらかすKGBエージェントのズコフスキーに対して、拳銃を突きつけたうえ、尻まで出させて本物であるか確認したボンドとは思えない・・・。

また、パロマとの共闘のさなかに、二人でグラスを乾杯させて酒を飲むシーンがあるんだけど、緊張して合言葉を忘れるくらいの新人が、人殺ししている時にグラスでカチンとやる余裕なんかありますかね?? ここは美しいシーンだったけれど同時に違和感があった。

まあ、そういうシーンはボンド映画にありがちな「ツッコんだら負け」の重箱の隅ではあるけれど、全体的にモヤモヤする映画だったのでそういう部分も余計に目についてしまった。

 


これは007ではない、ボンドの物語。

結局、なるべくシンプルにしようと思って書いた今回の感想も長々としてきたので、そろそろまとめに入る。

ダニエル・クレイグのボンドは、カジノ・ロワイヤルからスペクターまで、ずっと「時代の流れ」を感じさせてきた。

カジノ・ロワイヤルではまだ若々しく人間らしいボンドだったものの、それがスペクターまでに完成する。でも、人間は「完成」して終わりじゃない、どうしたってそこから老いていき、最終的には死に向かって崩れていく。

そうした遺伝子の運命のとおりに、本作でボンドは00エージェントを辞めたうえ、家族という弱点を背負う。そして、もはや007ではない「ボンド」という一人の男性が、「老い」から「死」へ続くセピア色の階段を登っていく・・・。

そんなとても寂しい映画だったのだ。

 

クレイグから続くボンドシリーズの終幕として必要なストーリーだったのかもしんないけど、俺としては、こういうの見に来たんじゃないんだよな~と思った。

カジノロワイヤルから続く「人間としてのボンド」をきれいに決着させようとして、昔ながらのボンドファンをモヤモヤさせた作品だと思う。好きな人はすまん。

 

(余談)

女王陛下の007』でジェームズ・ボンドを演じたジョージ・レイゼンビーに本作の感想を聞いたところ『音楽は良かったね笑』って言われた、と何かの記事で見た。

3時間の映画を見て、良かったのが『音楽』ってよっぽど酷い皮肉なんだろうな…と嫌な予感はしていた。で、たしかにその皮肉の意味もあるんだろうけど、彼としては本作の音楽を褒めて然るべきだと思うのは、劇中のワンシーンで『女王陛下の007』のオープニング曲がかかるのよ。

そこは鳥肌ものだった。

だから他人にこの映画の感想を言うときは、モメるのを防ぐためにも『音楽は良かったね』と言うことにしようと思う。