2011年3月、僕は神奈川県横須賀市の支社で働いていました。
入社してからまだ間もなかった僕は、小さな事務所で庶務作業の全般を任されていたため、その日も会社の車にガソリンを給油するため、近くのガソリンスタンドに向けて車を運転していました。
ガソリンスタンドに到着し、普段どおりの給油作業をスタンドの店員さんに依頼しました。
こうなるとヒマなので、僕は運転シートをリクライニングさせて、作業が終わるまでくつろぐことにしました。
その直後、つまり、2011年3月11日 14時46分、突然、自分乗っていた車が激しく飛び跳ねました。もはや「揺れる」どころの騒ぎでなく、まるで車に4本の足が生えて、空中にジャンプすることを繰り返しているかのような動きでした。
あまりにも異常な衝撃だったので、これは(むしろ)地震ではないと思いました。
これまでの人生で経験してきた地震とは明らかに違う揺れなのでした。
じゃあ何だこれは!?
僕は最初、ガソリンスタンドの店員さんみんなが総出で悪ふざけをして、僕の車を四方から持ち上げては激しく揺さぶっているのだと思いました。これは本気でそう思いました。でも、そうだとしたら疑問がひとつ。彼らは何でお客さんである僕にそんなことをするのでしょうか。
そして、その想定が間違いであるとわかったのは、長い時間激しく揺れ続ける車の窓から、周りの道路がまるで波のようにウネウネと脈動し、信号も看板も、建物さえも、あらゆるものが見たこともないくらい激しく左右に揺れているのを見た時でした。
そこで地震だと分かったのです。
地震だと分かって、この時まず思ったのは、間違いなく自分の真下が震源地だろうということした。つまり、神奈川県沖大震災が起きたのだということです。
そして、仮にそのとおりであれば、津波の危険がありますから、こんな海辺の土地からは一刻も早く逃げなければいけません。
でも、その前に、とりあえず状況を確認しようと、僕は車内ラジオを付けました。
そして、その時に聞こえてきた、NHKラジオの男性アナウンサーの声は、今でも明確に思い出せます。
「お伝えしていますとおり、さきほど、東北地方、宮城県を中心に、巨大な地震が発生しました・・・」
一瞬、「宮城ってどこだっけ?」と間抜けに思ってから、事の重大さが恐怖とともに理解できました。
遠く離れたこの神奈川県にいてでさえ、人生で経験したことのない巨大地震だったのです。震源地では一体何が起こっているのか、僕には全く想像できませんでした。
全く想像できませんでしたが、ただ一つ分かったのは、僕がまだ小学生だった頃に起きて、視聴覚室で悲惨な映像を延々と見ていたあの阪神大震災レベルの、未曾有の出来事が、たったいま起きたのだということでした。
もちろん、そんな状況ではガソリンスタンドも営業中止です。
車には会社に帰れるくらいのガソリンは残っていましたので、僕は会社に戻ることにしました。
ガソリンスタンドから車を出すと、地震がおさまってからしばらく経つというのに、なんと道路はまだ波打っていました。液状化という言葉だけは何となく知っていましたので、ここが埋立地なことから、まさにそういう状況になっているのだと思いました。
また、道路だけでなく、信号も全く機能していません。辺り一帯が停電しているようでした。
こんな中を、とても運転なんてできないと思いましたが、それでもたくさんの車が通行しています。見ると、みんな、港の方からやってきた車です。
事故が起きようがなんだろうが、津波から逃げないといけないのでした。でなければ波に飲まれて死んでしまいます。
そのことを思い出し、僕も覚悟を決めて道路に出ました。
なんとか車の流れに乗って、交差点に差し掛かった時、どうしようと思っていたら、みんなで窓から右手を出して、手信号を交わしながら、スムーズに通行していました。
車の教習所で「こんな手信号なんか、いつか使うことあるんかいな?」などと退屈に学んだことの、その「いつか」が今日来たのでした。
そして、事故を起こすことなく無事に会社に戻りました。
会社は近年中に建て替えが予定されているほど老朽化した建物だったので、もしかしたら倒壊しているかもしれないと思いましたが、無事でした。直ちに社員とその家族の安否を確認し、その日は全員早退となりました。
とは言え、電車ももちろん止まっていますので、遠方から通っている社員はその日は会社に宿泊することになりました。
会社から歩いて通えるところに住んでいた僕が、近所のコンビニを回ったり、自分の家からお菓子などを持ってきて食べてもらった記憶があります。
既に、コンビニからは水や食料が全て消えていました。
僕も家族と連絡をとり、全員の無事を確認しました。母からは、千葉の京葉コンビナートが炎上して、有害物が入った雨が降るので注意しろという100000%デマのチェーンメールを転送してきたので、とてもうんざりしたのを覚えています。後から母にその話をすると、自分の子供のためだったらどんなデマでも情報提供すると何故か胸を張って言いますが、皆さんはやめましょう。
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3月11日を迎えるたびに、僕らは亡くなった方々を思い出し、黙祷を捧げます。
そして、彼らを真に弔ううえで大切なことは「もし明日これがまた起きたら」を考えることだと思います。
“次”は準備する。そして生き残る。
本棚や食器棚の固定、避難場所の確認、水と食料、ガスコンロ、電池、ランプ、簡易トイレの用意・・・
過去を悲しみ、でも今からできることが色々あるように思えます。