「それ賛成!」ってもっと言おう、の話


児童相談所の設置ががいつものように大反対されている件について。
読者も、どこかですでに目にしたかもしれないけれど、ああいうのを典型的なNIMBY(ニンビー)」問題という。

 

NIMBYというのは「Not in my Backyard」の略語で、直訳すると「うちの裏庭ではやめろ」ということ。
つまり、主に社会政策について「ああそれはとてもいい考えだね^^ どんどんやるべきだね^^ でもうちの近所ではやるなよ?」というダブルスタンダードを表す言葉だ。

 

児童相談所も、痛ましい児童虐待のニュースが出るたびに「もっと数増やせ」「きちんと仕事しろ」だのという苦情が寄せられる一方で、それじゃ新たに設置しますとなると「うちの近所ではやるんじゃねえ」となる。


また他方では、少子化や待機児童の問題を認識しつつ、でも自宅のそばには(うるさいから)幼稚園を作らせないという反対運動が常にある。

こういうのがNIMBYだ。

 

○これが「どうしょうもない」考え方なのは直感的にわかるが、でも、そこで何ができるだろうかを考える。

 

NIMBYはよくないよ」と彼ら(彼女ら)に言ったって、本人からしてみれば「何いってんだ、こっちは直接"被害"を受ける側だぞ」となるだけで、全く無力だ。

南青山ごときのセレブ(笑)気取り老人どもの肩を持つ気は1ミリもないけれど(彼らが不寛容になるのは、老人となり死が近づいているからだ。俺はマナーの悪い老人から不快な目にあうたび「死を恐れているのですね」と思うようにしている)、非常にミクロ的な考えをすれば、児童相談所が出来ることによって、彼ら「個人」が受ける利益よりも、彼ら「個人」がこうむる(と思いこんでいる)損害のほうが多いので、彼らはああして反対する。そこに部外者のお説教が入り込む余地なんかない。


「みんなのために、なぜ自分が我慢しなくちゃいけないの(だいたい自分にゃ子供もいないし)」という意見は、非常に自分勝手で、国全体で考えれば誤りだが、個人のミクロ的な利害で考えると合理的だ。そして、こういう「合理的」な人を説得して「非合理的」にさせるのはかなり難しい作業になる。
その難しい作業をしているうちに、児童相談所を頼れずにひどい目にあう子どもたちは増えていくだろう。

 

○そういう場合に、行政のおこなう「住民説明会」が出来ることは非常に少ない。
反対意見、賛成意見が双方集まり、冷静で建設的な議論が行われるということはなく、ただ反対派がブチ切れる場所を提供するだけに終わりがちだ。

というのも、人というのは、反対するための努力はたくさんする一方で、賛成のためのエネルギーは割かないからだ(だって放っておきゃいいから)。


個人の体験に置き換えても、何かのアンケートで「これは非常に良くなかった(怒)今すぐやめてほしい」という意見は書いたことがあっても、逆に「これは素晴らしかったので今後とも続けてください」なんて書いたことなくない? で、自分としては良かったのに、いつの間にか無くなったあとで「なんで無くなったの? あれ良かったのに」と残念がることはよくある。

または、デパートで喚き散らしているクレーマーは毎日のように見かけるけれど、あんたの対応が素晴らしかったと言って店員に握手を求める人はほとんど見たことなくない?
「やめてほしいことは伝えるけど、賛成は伝えない」というのは極めて普通の行動なんだ。


○このように、わざわざ賛成意見なんか伝えなくても、勝手にやるでしょと考えるのが普通の人間だ。でも、住民説明会をおこなった行政側は、そこへきた圧倒的多数の反対派を前にして「このまま強硬的に施設をつくっても住民の協力が得られない」「嫌がらせにあうかも」という判断となってしまい、結局断念することになる。


それがたとえ「たった数百人」の反対派だったとしても、こうかはばつぐんだ。


○そう、「たった数百人の反対派」と言うように(港区の人口24万人のうち、会場を訪れた300人は0.13%にすぎない)、南青山にだって「賛成の人たち」も大勢いるはず。だよね? 彼らは何してるの? ニュースが伝えないだけっていうのもあるだろう。だから南青山の人みんなを悪く言ってはいけないよ。

あんなにもネットで南青山のクソどもがって炎上するくらい日本人の民度が高いのだから、確率的に言って南青山にもきっと(かなり大勢)児童相談所に賛成の人たちは当然いるんだからな。

 

どういうわけか社会のために自己犠牲の精神をもった人は少なくない。
シャーロックホームズも、「君(モリアーティ)を確実に破滅させることができれば、公共の利益のために、僕は喜んで死を受け入れよう」と言ってたことだし(と名探偵コナンで見た)。

 

ところで今の日本は、世の中の全員がわかり合えないことを前提に、なるべく数が多い意見が採用されたほうが(少なくとも他の方法よりは)「納得できる」民主主義を採用していて、とりあえず今のところはこれでうまくいっている。

ならば、こういう胸くそ悪いことが起きるのと同時にすべきなのは、NINBYの連中を口汚くののしることと同時に、もっと「自分は賛成だ」という意思表示をすることだと思う。うちの近所に託児所をつくれ、保育園をつくれ、こういう土地があるから提供するなど・・・。
これをNIMBYに対して「YIMBY:インビー」(=Yes In My Backyard(それいいね。うちの近所でやんな))という。


○NINBYに対抗するのはYIMBYしかない。
こういうのが報道されることで知った賛成派(物事に賛成している場合、その物事が反対を受けていることにも気が付かないものだ)は、「YIMBY」の声を挙げるなりして、行政にもっと「そういう施設が必要である」旨を伝えたほうが良い。

「反対の人もいるだろうけれど、ま、頑張ってやってよ^^」というタダ乗りが大きな不幸を呼ぶのは、「どーせみんな常識的な判断をするでしょ」と思って投票に行かなかったらEU離脱することになっちゃったイギリスの通り。この場合「黙っているのは反対」なんだ。

学校でも、学級会での決めごとに際して「何か意見のある人はいませんか」と言って、だいたい反対意見の募集のみをやって「異論がないようなので賛成多数とします」とかやっているけれど、これだと少数の反対派のために全体の賛成が覆ることがある。
「良い」ことは「良い」と、ちゃんと伝えたほうが良い。そのような活動があれば、行政も「でもね、あなた達よりずっと多く賛成してくれている人がいるんですよ」って言える。

 

それを可能とするため、行政としても、賛成派がぜんぜん参加しないような集会を何度もやるより、インターネットなどで意見公募の窓口を作ったり、必要に応じて住民投票を行って「みなさんの意見を聞いた結果こうなりました」と主体的に決めてしまったほうが良いんじゃないかな。決められるのは君たちだけだ。そのうえで、ただでさえ声を出さない賛成派が結束したりなんてしないのを前提で、彼らの意見を多く集める仕組みが必要だ。

 

また、「反対意見の中でそういう施設を作っても嫌がらせにあうかも」という意見もあるけれど、そもそも反対意見をゼロにすることは確実に不可能だから、それは考えても仕方がないリスクだ(クレームがつかない施設をつくるのは不可能だ)。


○ 自分の利益のために「きちんと行動している」という点だけで見れば(「だけ」だからね。手に持ったカップ投げつけないでね)、施設反対の連中のほうがたくさんのエネルギーを使っている。そして、善良な日本の行政は「いやいくら反対意見がきてもここに作るって決めたから」と言って強硬するようなことはあまりしない。我が国が世界に誇る民主的な政府だ。でも、そうなると理屈の正しさより「エネルギーを使ったもの勝ち」になることがある(こういうのを「ロビイング活動」という)。

これが嫌なら、(地域外から南青山の連中に罵詈雑言を投げつけるのと同時あるいは別にね)やっぱり現地の他の住民も賛成の声を上げなきゃいけないと思うし、NIMBYと戦うためにもそうするべきだと思う(賛成派が組織化がし辛い問題もあるけれど)。

俺自身も、俺に子供ができたとしても、きちんと「それ賛成!」が言えるようになりたいと思う。また、実際に俺の近所にこうした施設ができる場合は、きちんと意見を書いて行政に送ろうと思う。

 

 ○なお、経済学的に考えると、この児童相談所に反対する「土地の価値が下がる」と言っている人たちに対しては、実際に下がった土地の価値分のお金を補助金として渡してあげるという解決法もある(これを「コースの定理」という)。
この定理に従えば、土地の価格のほか、たとえば保育園の「騒音」で苦しんでいる人についても、「騒音のおかげで毎日1万円の苦痛を受けている」ならば、毎日1万円をあげればいい(いくら渡すかは彼らの言い値となるが)。それで数式の上では問題が解決する。
もちろん、そんな理不尽でくそったれな連中のためになんで税金を払うんだ、頭おかしいんじゃないかと言われるのがずっと先なんで、通常こうした方法は行われず、ただ話し合いをすることになる。でも、そのためにも税金は使われているのに注意したほうがいいだろう。